外部記憶装置

増田貴久くんについていろいろ考えたり思ったり忘れたくなかったりすることを書いておくとこです。

フレンド 10月10日

このお芝居を見た人にザルツブルクの小枝は投げ入れられた筈だけど…果たしてどうでしょうかネ…

以下、この日見た事感じた事。同じようなことを何度も何度も書いてるかもしれないですけど自分用の記憶メモなのでご了承くださいませ……。

 

「しかし   噫」

この日は、しかし、と、ああの間にひと呼吸あって、声を張るのでなくすこし静かに、しみじみとした、やさしい吐息のような「ああ」。7日の続けざまの言い方も好きだけど、これもいい…。 

アドリブが入る、セリフがかわる、セリフの言い方がかわる、表現がかわる。舞台おもしろいです。1つの舞台をこんなに何度も行くことって増田君の以外ではないからな私。

汚れた太もものあたりを払う仕草が1ミリも増田君じゃないのは29日に見た時から感じていて。渋谷で警察にくってかかって大変だったんだよ、とテンション高く言う喜さんもちょっとほろ酔いなんですよねえ?なんて思う。テーブルの上で寝ている中也はテーブルクロスを体に巻いてふとんにしようとして、この日はうまく体に巻けなかった。かわいい。

「悲しいんだ!」この冒頭で中也は悲しい悲しいといっている。

下宿に送り届ける任務(という言葉だったかどうか…)があると喜さんが言い、2人でフレンドを出て外を歩いて行く時、思う存分語りましょう!などなどと中さん相手に言う、そのセリフのいい方がこの日とても自然で好きだったんだけど、セリフ自体はあまり覚えていない…(ニワトリ脳)。

ていちゃんが演技で小説や詩を罵倒する。それに一瞬怒っちゃう喜さん。ていちゃんと喜さんの関係性。よく笑いがおこる客席、さらにさらに入り込み激しくその役そのものになる演者たち。ていちゃんはどんぶりの水を顔に勢い良くぶっかけられていた。

「自称詩人だ!」に言い返せず顔を真っ赤にして唸る中さん。座り込みアーアーと喚くのを明るい笑顔で諦めるなと励ます喜さん。嬉しくて嬉しくて抱きつく中也。この場面はでは喜さんは中さんに諦めるなといったのに、お前は諦めるのかと後の場面で中さんは喜さんを責める。

女給姿の秋ちゃんを目で追って戸惑っている喜さんを確認。

秋ちゃんが持ったレコードに少し身を屈めて耳を当てる喜さん。驚いて、躊躇して、そっとそっと反対側に耳をくっつける秋ちゃん。

この日の芝居で大工の兄さんが最後に秋チャンを誘ったのは「さんぽ」。

三郎さんの変化は少しずつ。「アカなんだろ?」と学生達に言うあたりから。次は「やっぱり父さん母さんがいいよ日本人は」。三郎さんは世間。傀儡政権と言うぐらいの客観性はあったひとが最後には皇国のためと。

場面がかわるときの効果音は電車の音かな?という機械音やエンジンの音、喧噪で、にぎやかな場所なんだなって思う。

「結婚 ぶちこわしてやろうか?」喜さんはこの直前におじさんおばさん達に気を使い酒をつぎ笑顔を作っているのね。この言葉で中也の方をまともに見る。「中さん…!」。

ちょっとだけ中也に対して丁寧じゃなくなる喜さん。「友達です!」と言う前、中也が拒むその手首を無理矢理掴む、喜さんの意思の強さ。

ていちゃんとの別れ。いやその前の、文学が死んだことへの憤りからか、顔はよく見えなかったけど涙を我慢して堪えて演技する彼。その、涙と激情をなんとか納めて発する声。おそらく堪えきれず。怒り。憤り。悔し涙。ザルツブルグの小枝が、恋が、ない。「飢えや身売りはなんとかしなくちゃいけないよ?でも」他にやり方はあろうと。

セリフの中に「権威主義」という単語があったのだけど、誰のどこのセリフか覚えてない。

このワードが私にひっかかったのは私は権威主義が大っ嫌いだから。ここの喜さんだっただろうか。

ラスト。泣いて泣いて。抱きしめて、暗転して(暗転するようになったのはいつからですかね?)、その暗転の中、喜さんのすすりあげが聴こえる。終演。立ち上がって涙を右手で払う。

 

カーテンコールでの中さんは喜さんや秋ちゃん以上に本人に戻っていないように見えて痛々しく

喜さんは喜さんを引きずりながらも座長としての増田君の顔が少し現れしゃきっと客席への礼を先導する。