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外部記憶装置

増田貴久くんについていろいろ考えたり思ったり忘れたくなかったりすることを書いておくとこです。

フレンドのモチーフ

フレンド —今夜此処での一と殷盛り—

大岡昇平の「中原中也」を読んだ後、安原喜弘「中原中也の手紙」を読み返しました(どちらも講談社文芸文庫)。

 

フレンドを見る前の「安さん」の印象と、フレンドの「喜さん」と、そして読み返したあとの安原喜弘像。決してフレンドの喜さんでは、ないんですね。あれはやはり史実がベースの作り話で、喜さんは喜さんで、安原さんは、違う人なんです。

でも、フレンドを見た後の方がより深くその出来事や関係など感じることができるなぁと…。

 

違うんだけどおなじ。おなじカケラがみつかったので、その中のいくつかをここに書いておきます。

その晩はベートーヴェンの第九シンフォニーのレコードを三人して聴いて帰って行った。私はこの時から彼に惹き付けられて行った。(安原喜弘「中原中也の手紙」P.15)

その晩とは大岡が安原に中原を紹介した日の晩ということです。ベートーヴェンの第九を、出会った日に聴いているのかと…。これは昭和三年の話。

八月私は雑誌に小さな詩を発表した。中原と私の交遊が真に始まったのはこの詩を機縁としてである。この時から私と中原との市井の放浪生活が始まったのである。私達は殆ど連日連夜乏しい金を持って市中を彷徨した。いつもは最初は人に会いに行くのであった。三度に二度は断られた。それから又次の方針を決定し、疲れると酒場に腰をすえるのである。時に昼日中から酒を飲んだ。酔うとよく人に絡んだ。そしてこの国の宿命的な固定概念と根気よく戦った。(同P.21)

 昭和四年の八月。親しくなったのは安原の詩がきっかけだった、と。

彼の周囲の最も親しい友人とも次々と酒の上でケンカをして分れた。私は廻らぬ口で概念界との通弁者となり、深夜いきり立つ詩人の魂をなだめ、或は彼が思いもかけぬ足払いの一撃によろめくのをすかして、通りすがりの円タクに彼を抱え込む日が多く続いた。『白痴群』はいろいろの都合で休刊になっていた。(同P.27)

私達は初めはいつも静かに二人して酒を飲むのであるが、彼の全身は恰も微妙なアンテナの如く様々な声を感得して、私と語る彼の言葉はいつしか周囲の会話への放送と変るのである。その為め私はいつも彼の注意をそらさせないよう細心の配慮をするのであるが、その努力は殆ど徒労であった。

(中略)

やがて又四条あたりの喧騒の中に腰を据えるのがおきまりであった。そこでも私は座席の位置、衝立の在り方、光線の具合、彼と私の向き、周囲の客の種類や配置、私達の会話の内容等それとなくいろいろに心を配るのであるが、それもこれもすべては無駄である。私が気が付いたときには既に彼の声は凡ゆる遮蔽物を乗り超えて遥か彼方に飛んでいるのである。(同 P.28)

 方角や座席の位置でどうにかしようとしていた「喜さん」を思い出します。

この年三月、私の家での『白痴群』編集会議の席上、詩人と大岡とがふとしたことから喧嘩となり、ついには殴りあいとなった。といっても殴りかかるのは一方的に中原だけだったのだが。これ以来何年か二人は会えば喧嘩ということになるのだった。そんなこんなで雑誌は翌四月発行の第六号を最後に休刊となり、結局は事実上廃刊となった。(同P.34)

大岡は自分からは手を出さないようにしていたという話が大岡昇平中原中也」にありました。メモしていないのでここに引用できませんが。 

「秋子」という名前は中也の手紙に2回か3回でてきて、「暫(しばらく)」という酒場で働いていた女性だとのこと。

 

「フレンド」とは関係がないのですが、安原さんの性格が現れるなぁという部分がありました。「君は成績が好いんだってね。」と中原の手紙(ハガキ)にあったのですが

私の成績については彼は何か勘違いをしたらしい。大間違いである。(同P.47)

 手許に残る手紙を紹介しその手紙について説明する安原が、自分の成績についてこう注釈するのがかわいらしくて。

また、2人の関係性が感じられるこんなところも

帰途彼は汽車で途中まで私を送って来た。彼は未だ何か私を離したくない様子であった。何事か重大な事柄が彼の心の中に残されている風であった。途中天神様のある古風な町で下車してそこのうらさびた街々をあてもな逍遥った。彼は遂に語らなかった。私は夜遅い汽車で東に去った。(同P.82)

 これは安原が中原の郷里を訊ねた際の話。

「山羊の歌」に関して

表紙の意匠は私が受け持つことになった。(同P.98)

表紙の木版は原稿も思わしくない上に、版の出来も不首尾で、その後これは古河橋のたもとから泥河の中に抛り込まれてしまった。(同P.99)

このあたりのことは詳しくは書かれていません。どうも青山二郎にボツにされたらしいんですが、私はまだその文章にあたってません。ともあれお芝居にあったあの話は、史実が元になっているんですね…。これについて詳しく書かない安原さん、ね。

私は彼と衝突の恐れがあるすべての友人達との接触を極力回避しようとするのであるが、それも結局は徒労である。足はいつしか戦場に踏み込んでいた。その頃京橋に『ウインゾア』という酒場があって、此処に毎晩殆ど主なる顔ぶれが揃うのであるが、彼はどうしてもそこに行くことを主張するのである。私はなんとかして行かせまいと力を尽くすのだが、結局は彼の体はそこのドアを開けてしまうのである。私のいないときは尚更である。そこで彼の毒舌はいやが上にも散乱し、そして最後にはいつも乱酔と乱闘に終る日々が続くのである。こうして彼は嘗て彼の最も親しかった友人達とまた最も憎み合わねばならなかったのだ。(同P.101)

夜前私達は例によって彼の想念に基き街を行動した結果、銀座方面に於て遂に敵軍に遭遇し、そこに激烈なる市街戦を演じたのである。夢と現実との相克は尚屢々彼の中に激しかった。一度は平衡を得たと見えて、次の瞬間には又々私共の手許遥かに逸脱するのである。能無しの証人は僅かに彼の肉体を抱えて下宿につれ帰るのみである。(同P.106)

 P.106のは「昨夜は失礼しました」からはじまり「一人でカーニバルをやっていた男 中也」で終る中也の手紙についての説明です。この手紙は実物を、立川の国立国文学研究所特別展示「中原中也と日本の詩」で見ました。

それから、この本の最後に収録されている「中原中也のこと」とある、中也死後40年あまりたった時に書かれた安原の文に

やがて本文の印刷がどうやらかなり満足にできあがった。しかし、それ以後の製本から装幀その他の資金がどうしても工面できなかった。印刷代の支払いをすませると、下宿では置いとく場所もないから預ってくれとの頼みで、刷り本は紙型といっしょに私の家に引きとった。ちょうど私の家の出入りに、「ていちゃん」という気のいい若い衆がいて、二つ返事で麻布の竜土町から目黒の家まで、リヤカーで運んでくれた。このていちゃんは、目黒の行人坂下にあった中村屋という和菓子屋の次男坊で、芝居好きでもあった。

(中略)

私と同年輩の青年であった。近ごろはこんなことまで調査の対象になるらしいので、念のため書き添えた。(同P.215)

ていちゃんのモデルだ。

「近ごろは〜」以降がまた安原さんの人となりを感じられて好きです。

 

お芝居と違い、現実の2人の距離はだんだん離れて行くのですが…それは恐らく安原さんが寡黙であり、言葉を紡ぐより黙ってしまう質だったのかなとも思うし、だからこそ彼が中也の傍に寄り添うことができたのではないかなとも、思うのですが、こんな中也ニワカの私がナニカシラ言うことではないデスね。

とても真面目かつ出しゃばらず言葉を重ねず余計な評価をせず、という印象の安原の文章に対し、大岡の方は辛辣にバッサリ行きます。

中原の生活を知っているわれわれの判断は、払込んでも飲んでしまうにきまっている、といったところであった。(大岡昇平中原中也」P.269)

詩集の印刷が進まないにつれ、中原の神経は混乱し始める。友人たちが詩集の出版を妨害しているというような被害妄想も生じたに違いない。「家も木も、瞬く星も隣人も、街角の警官も親しい友人も、今すべてが彼に向い害悪を以て囁き始めたのである。」と安原は書く。(同P.270)

 「家も木も〜」は「中原中也の手紙」のP.100だったと思います。

 

もう手許に本がない(図書館に返してしまいました)ので、全てメモしたことを元にこの記事を書いています。メモのミスがあるかもしれません。

大岡さんの「中原中也」の方は時に笑えて読んでいてとても楽しかったです。 やたら私情が入っていて途中オイオイと突っ込みながら読みました。

一方、安原さんの方は微塵もそんなところはなく。手許に残る手紙を紹介することに徹している。

全く違う2人が、とても興味深くて、また借りてきて読もうかな、いっそ買おうかな、買ったら逆に読まないかもな、なんて考えております…。